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緘黙の本やブログには、こんなことが書いてあります。

学校の先生は「騒がしい子に目が行きがちで、話さない子の問題まで気が付かない」「だから緘黙の子は教師に助けてもらえない」「だから緘黙の子を支援する方法を知ってもらおう」


この考え方、根本的に間違っていると思うんです。確かに教師が緘黙のことを知らないのは、その通りだと思うのです。

でも知ったからと言って、助けるために努力するかどうかはその人次第です。

まず教師と言うのは「子どもの幸せを願って生きている」わけではありません。

そもそもなんで緘黙の子を助ける方法を知ったからと言って、教師が緘黙の子を助けるためにそんな努力をすると思うのですか?

教師に限らず人が何か行動を起こすときは、必ず動機が必要です。なぜ教師が騒がしい子を注意するのか?と言うとそれが教師の仕事だからです。

緘黙の子を助けるのは教師の仕事ですか?

学校の先生の行動を決める3つの考え方


学校の先生は大きく分けて3つの考え方で行動が決まります。

  • 学校の先生としての行動
  • 〇〇学校の教師としての行動
  • 個人的な性格や思想、やる気や能力の違い

学校の先生としての行動

授業をする。行事の引率をする。通知表をつける。騒ぐ生徒を注意する。いじめる子などを注意する。などは学校の先生としての行動です。

〇〇学校の教師としての行動

学校の先生としての行動に似ていますが、それぞれ学校には方針があります。教師は校長の命令や上司の命令でも行動します。

ブラック校則って学校にあることがあります。ブラック校則を守らせることが、子どもの幸せにつながるのでしょうか?つながらないですよね。

でもなぜ教師がブラック校則でも守らせるために努力するかと言うと、〇〇学校の教師だからです。学校の決まりを守らせるのが仕事だからです。

個人的な性格や思想、やる気や能力の違い

学校の先生ってそれぞれ性格や思想、やる気や能力が違います。だから人によって言うことが違ったり態度が違ったりします。

優しい人間、厳しい人間、能力の高い人、能力の低い人、やる気のある人、やる気のない人それぞれいろいろです。人には良い面があったり悪い面があったりします。

人それぞれ良い面と悪い面があるのですが良い面の多い人もいれば、悪い面が多すぎる人もいます。

よく緘黙だから教師に、ひどい目にあわされたという話があったりします。でもそれって知識の違いではなくて人間性の違いのほうが大きかったりします。

自分勝手でわがままだったり、出来ない生徒を馬鹿にして喜んだり、子供をいじめて喜ぶような好ましからざる人物も中にはいます。

緘黙の子を助けるのは教師の仕事か?


緘黙の子に対して正しい対応をするそれってどこまでが学校の先生の仕事でしょうか?教師の仕事って明確に決まっている部分と明確には決まっていなくて、あいまいな部分があったりします。

たとえば授業をするこれって教師の仕事として明確に決まっています。ここをさぼったらまずいですよね。あと通知表をつけるとかもし「面倒だから通知表をつけない」なんてことをしたら大問題になります。

じゃあ親が緘黙について理解して欲しいから黙の本を渡して「読んでください」と言ったらどうでしょうか?「緘黙の本を読む」それって教師の仕事か?って聞かれたら微妙な問題ですよね。

緘黙の本を読むだけでなく緘黙の子に対して「こうするといい、ああするといい」と言う方法はありますが、それって要望されたら必ずやらなければいけないことでしょうか?

学校の先生にしてみたら緘黙の子が話せるようになっても、ボーナスをもらえるわけでもないし出世できるわけでもありません。

子どもの緘黙を治すのは、教師の仕事として明確に決まっているのでしょうか?校長に緘黙の子を助けるように、指示をされているのでしょうか?

人は基本的に自分の利益のために行動します。ただし人には善意があります。善意の大きさは人それぞれです。相手の利益のためにどの程度、行動するかどうかはその人次第です。

大きな善意を持っている人もいれば、あまり善意が大きくない人もいます。

親と教師の立場の違い


それでは親はなぜ自分の子どもの緘黙を治したいのでしょうか?

自分の子どもなので大体の人は愛情がありますよね。自分の子どもに幸せになってほしいというのは当然だし、それに子どもの緘黙が治ると自分の利益になります。

将来引きこもりになったら自分が面倒を見ないといけないし、逆に幸せになったらその幸せは自分にも影響を及ぼします。はっきり言うと親が子どもの緘黙のために努力するのは、自分の利益のためです。

教師が生徒の緘黙を治すために努力するのは、仕事だからです。しかも成果報酬をもらえるわけではありません。

仕事としてやらなければいけない事以上のことをするのは善意です。

それにどこまでが教師の仕事かはあいまいな部分もあります。

自分の利益のため努力する親とは根本的に違います。この違い。緘黙の本には書いてありませんがすごく重要です。

子どものためにすごく努力してくれる学校の先生がいてもそれは善意であって、自分の利益につながる親や当事者とは違います。

子どもの緘黙を治す。いったい誰が一番努力するのが正しいのかと言うと一番利益を得る人が努力するのが正しいと思うです。

この場合は、当事者と親です。

教師はあくまでも仕事としてやらなければいけない範囲をお願いする。

仕事を超えた部分は善意なので、協力してもらえるようならありがたく協力してもらう。

それくらいの気持ちでいたほうがいいでしょう。

まとめ


緘黙の本やHPを見てみると学校の先生が「緘黙の子を助けたくて助けたくてたまらない」ということを前提に書いてありますが

教師にとって緘黙の子の将来がどうなろうと関係ありません。緘黙の子が将来不幸になったら親や本人は困りますが、学校の先生は全く困りません。

学校の先生は大人になったらというか、1年たって担任から外れたら無関係になります。

学校の先生は生活のために、収入を得るための手段として学校の先生をしているんです。仕事としてやらなければいけないことならしないといけませんが、そうでないならやらなくても仕方ありません。

教師は親や当事者と同じ気持ちには決してなれません。それに担任の先生にしてみたら30人ぐらいいる生徒の一人です。親と同じくらい努力するのは無理です。

ここをわかっていないと一方的に学校の先生に無理な要求をしてしまい。お互いに嫌な思いをすることになります。

緘黙の子を助けるのは親が中心になるべきで成長とともに本人の比重が大きくなる。学校の先生には協力してもらうという気持ちが大切です。